わっしょい( ˆoˆ )/
世界のお祭りを巡る、奇祭ハンターのちよ子(@tailovene)です。
突然ですがみなさん何のお肉が好きですか?
わたしは俄然ラム肉です♡
いつか本場のモンゴルでジンギスカン三昧することが夢だったりします!
今回は、可愛く言うと「ヒツジやヤギをみんなで食べよう~♪」というお祭り紹介なのですが、どストレートに言うと、神への生贄としてヒツジやヤギを大量虐殺するお祭り紹介になります。。。
※血などグロい写真が苦手な方は【閲覧注意】です!!><
命を捧げる祭り、犠牲祭とは?
イスラム教徒のラマダンという名前を聞いたことはありますか?
この「ラマダン」とは、日の出から日没まで1ヶ月間ほど飲食を絶つ断食のことを言います。
そのラマダン終了後の2ヶ月10日後に行われるという、
正式名称「عيد الأضحى(Eid ul-Adha,イード・アル=アドハー」
日本語では『犠牲祭』と呼ばれています。
そう、このような犠牲になります。
今回は西アフリカで過ごしていたときに出くわした
犠牲祭(※TABASKI-タバスキー-)というイスラム教徒のお祭りをお届けします。
※TABASKIとは西アフリカの地域でよく呼ばれている犠牲祭の名称です。
犠牲祭の起源
この犠牲祭は、イスラム教徒で定められた宗教的な祝日に行われます。
旧約聖書の中で、
「アブラハムが神アッラーへの忠誠を誓うため、進んで息子のイサクを生贄に捧げた」とされていて、世界中のムスリムから称賛される祝日となったのです。
そこからその忠誠を称えるためヒツジやヤギを生贄として捧げ、
神への感謝と食べ物への感謝をするお祭りとなりました。
犠牲祭の準備に必要なヤギマーケット
犠牲祭前は、町のそこらじゅうにヤギマーケットが開かれています。そして犠牲後はぱったりと姿を消します。
バイクで一緒に帰ったり、バスの上に乗せたりと持ち帰り方法は様々なスタイルで。笑
生贄ヤギの相場
一般的には、生贄は4歳以上の163.8キロ以上重いものがふさわしく、健康体のもので一世帯に一匹は捧げなくてはならないとされています。
一匹辺りの相場は、15〜35万CFAで、
およそ公務員2ヶ月分のお給料くらいだそうです。
そこでヤギなどのお肉が食べられない貧しい人たちや値段が高くてヤギを購入できない家庭へ分配をする慣わしがあります。
これは「ザカート」と呼ばれる困窮者を助けるためのイスラム教徒の義務の行いのひとつでもあります。
なのでこの日はみんなが平等に、みんなが同じお肉を食べられる日なのです!
期間中は家族や友人、近隣住民、親戚など訪問したり、招いたりお祝いの食事としてお肉を頂きます。
神の元、人との分かち合いや交流を重要視した
イスラム教徒にとって1番大きく大切なお祭りなのです。
犠牲祭の当日
当日は、朝9時から10時にモスクへ向かいます。
イスラム教徒の男性はジャラビアと呼ばれる真っ白な服装、女性はトーブという色鮮やかな服装で過ごします。
毎日5回行う祈りを、モスクに入る前に一度行い
男性、女性と分かれて集団儀式が始まります。
当時、サウジアラビアのメッカ(イスラム教徒にとっての聖地)では大勢の人が押し寄せて、
将棋倒しになり死者2100人以上出てしまったほど!
国は違えど、同じイスラム教徒。
宗教の色がとても強いお祭りなので、
犠牲祭前の集団儀式も大勢の人が集まり厳粛に行われていました。
儀式終了後は、家に帰って各家庭ごとにTABASKI!
移動中の景色もそこらじゅうでヤギが犠牲になってました。
丁寧に無駄なく部位ごとに切り分けていきます。
目指せ大人の仲間入りっ
長男坊はもう立派なムスリムでした!
TABASKIの時にスカーフを巻いてもらったからか、先ほどのヤギの解体で自信がついたのか・・・ずっと人見知りだった長男坊のムハンマドがめちゃくちゃ懐いてきました!!
これぞお祭りマジック♡
私がお世話になったお家では、女性陣はホルモン担当♡
綺麗に腸の中を水で洗い流し、三つ編みしていきます。
BBQで焼いたヤギのお肉は、
翌日のボロロ族探索の旅へ出発するときにママがお弁当として持たせてくれました♡
詳細日時まとめ
日時◇ラマダン終了後2ヶ月10日後頃
場所◇イスラム教諸国
注意すること◇TABASKIの日は祝日のため、お店や銀行がすべて閉まります!
生活するに当たっての必要なもの(飲食など)は予め購入しておきましょう。
さいごに
多くの動物の犠牲があるこのお祭りですが、
ラマダン明けを経験したムスリムの人たちにとって、
普段命を省みる機会がまったくなく、普通に過ごしている私たちよりも遥かに、
神様・生き物・食べ物にとても感謝しているんだと感じました。
犠牲祭でのお肉は、①その日の食事分、②貧しい家庭へ与える分、③保存食分、として分けられ、一切のムダがなく・残すことなくキレイに食べ切りました!
”命を頂く”というのは、そういうことなのだと思います。